
現在、門址と城壁の一部が残っており、別名·造南山城とも呼ばれる。
咸安郡咸安面槐山里と伽倻邑広井里の間にある海抜139.4mの造南山、あるいは城山と呼ばれる山の上に築造された石垣山城で、周囲は約1,400mに至る。現在、門跡と城壁の一部が残っており、別名·造南山城とも呼ばれている。
この山城の正確な築造年代は分からないが、咸安邑誌によると、ここは伽倻国の旧跡地と記録されており、山城の形式が三国時代の類型に従っている。一方、山麓の北の低い丘である末伊山には同時代の古墳群が群集しているが、城と古墳とは古代から密接な関係を持つ点から見て、伽倻時代の遺跡地と推定されている。
城山は北から見れば独立した丘陵のように見え、西南に続く丘陵地脈を除く残り3面が全て比較的傾斜の険しい山勢を形成している。城内の形はやや凹んだ平坦な地形だが、ほとんどが田畑として耕作されている。
城壁は山頂の稜線にそって自然石または滑石を利用して石楼が築造され、東北に高さ1mほどの石垣城壁が、東に高さ6~7mの石垣部分がよく残されており、城壁は板状の滑石と、長方形または正方向の面を持つ滑石を水平に築造し、その外側に補築された構造で築造されている。城内の面積は約102,500㎡である。
最近、この山城に対する学術発掘調査から城門があった東門跡、南門跡が実際に確認され、その他に排水路施設、池、建物址などの遺構と高杯、短頸壺などの土器類、鬼面瓦、雌·雄瓦や軒瓦などの瓦類をはじめ、銘文木簡などの重要遺物が出土してその歴史的価値が認められ、1963年1月21日に史跡第67号に指定された。
- 位置
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- 慶尚南道咸安郡伽倻邑広井里一帯